仲田有里『マヨネーズ』論(『井泉』76号掲載)
むき出しの「私」からサバイバルへ 堂園昌彦 先日、二〇一七年三月に、仲田有里の第一歌集『マヨネーズ』が出版された。二〇〇六年の第五回歌葉新人賞次席作品を含むこの歌集は、私には二〇〇〇年代の若者の口語短歌のひとつの極点を示しているように思われる。 本を持って帰って返しに行く道に植木や壊しかけのビルがある 友達が帰って行った夜の外流しに貝を集めて捨てる 一首目、借りた本を返しに行く道に、植木や壊しかけのビルがあった。それだけの歌だが、なぜかこの「植木」や「壊しかけのビル」に見過ごすことのできない存在感を感じる。二首目、自宅で友人と貝料理を食べた後だろうか。少し寂しそうに片づけをする光景をイメージすると、この「貝」に妙に引っかかる。通常の短歌ならばあるであろう象徴的意味がこの「植木」や「ビル」にはないし、「貝」も同様に主体の不如意を表す道具にはなっていない。だからこそ読者は予定調和ではない語に驚き、何か不可解なものを受け取ったかのように、歌はざらつきを残す。仲田の歌の特異なところは、歌を俯瞰して意味づけをするメタレベルが一切ないということである。逆に言えば、その分生々しい「私」が歌の中に生きている。 メタレベルを介在させずに「私」を描くのは、実は子規の方法論に近い。「和歌の俳句化」を目指した子規(大辻隆弘『アララギの脊梁』)は、歌の言葉の中から主観的な用語を省き、客観的な事物のみを描いた。子規の写生論とアララギの写生論は違う。原理的な子規の写生論へ俯瞰的な情報をいかに入れていくか。弟子たちが試行錯誤をしたのが、後のアララギの写生論である。 二〇〇七年に書かれた優れた口語短歌論である「生きるは人生と違う」(『短歌ヴァーサス』第十一号)の中で、斉藤斎藤は仲田の歌に触れ、こう述べている。 中田(注:現・仲田)のわたしは、今橋(注:愛)のわたしよりもさらに、今ここの〈私〉の視点を徹底している。(略)「水」や「歯磨き粉」に、「私」の心情は全く投影されていない。水は水であり、歯磨き粉は歯磨き粉でしかない、しかないものを見たまんま描く〈私〉のそのまんま加減に、敬虔な迫力を感じる。一首のなかに、中田のわたしは生きている。中田の歌に人生はない。すっぱだかの生きるしかない。 少し補足すると、文中の「私」とは「外か...