永井祐小論(『つばさ』第13号掲載)
ぶ厚い素直さ
堂園昌彦
「短歌往来」二〇一五年一月号の特集「次代を担う歌人のうた」の「自選メモ」で永井さんはこう書いている。「短歌をつくるのはとてもすばらしく素敵なことだ。」本音だろうな、と思う。永井さんとはもう十年くらい一緒に歌会をしているが、永井さんの歌は歌会で読むときも、誌面で読むときも、神経が通っていない部分がほとんどない。最近の歌は特にそうだ。いいな、と思うこともあるし、この歌はそれほどだな、と思うこともあるが、それはそれとして、ひとつひとつの歌が恐ろしく丁寧で、作り手の愛着をものすごく感じる。そして、なんというか、他のひとの歌に比べて、含みこんでいる空気の量が違う。
真夜中はゆっくりあるく人たちの後ろから行く広い道の上
この歌も初め歌会で読んだのだが、大ぶりな言葉遣いにも関わらず、伝達される情報の細やかさに驚いた。飲み会の後などで、何人かで駅に向かってゆっくり歩き、思考を他人に預けているときのリラックスした気分と、五月くらいの熱くも寒くもない夜の空気が鮮明に感じられる。これはとても驚くべきことで、普通、短歌は思想や感情といった、もう少し固定化され、象徴化されたものを表現しようとする。というより、してしまう。しかし、永井さんの歌はいつもその一歩手前というか、現実が象徴化や物語化を経ることでシンプルなものになってしまう、そのぎりぎり寸前を手渡そうとする。
ディベートは弱いんですと言うことでわたしは何かアピールしてる
「何か」って何だよ、ととっさに思ってしまうが、やはりここは「何か」としか言いようがない。これを具体的なものに言い換えてしまうと、そこに生まれていたコミュニケーションの綾が消え去ってしまう。社会が要求している「つまり」の逆、要約では表現できない「何か」を永井さんはいつも言おうとしている。
馬の背中が息をしている夜の道スポーツドリンク持って立ってた
この歌も、馬の存在感のみを詠おうとしているのではない。スポーツドリンクも、スポーツドリンクを持っている私も、夜の道も大事だ。観察される馬と観察する〈私〉の照応関係だけではなく、そうしたものをすべて含んだ夜の空気それ自体、その豊かさを言っていると思う。
では、空気と言うが、それはいったい何なのか。永井さんはそれを表現することで何をしようとしているのか。答えるのはとても難しい。しかし、ひとつ言えることは、正岡豊さんが「圧迫の緩和の短歌化」と言い、以前私が「イタロ・カルヴィーノの言う『軽さ』への意志」と書いたように、永井さんの歌は、現実世界の圧迫感や重たさへの反応として、現実の目盛りの細かさを増やすことをしている。
ショッピングモールの床に落ちていた羽を見つけて寄っていく犬
ショッピングモールなんて、頭で考えると無味乾燥で面白くない場所だが、よく見ると、現実のすき間のような光景がいくらでもある。この「羽」も「犬」もフラットで、特別に光り輝いているわけではないが、とても面白い。実は私は、永井さんの歌にシニカルな影を感じたことは、ほとんどない。それよりも、「短歌をつくるのはとてもすばらしく素敵なことだ。」に通じる、ぶ厚い素直さをいつも感じる。そして読むたびに、現実って面白いよな、と思い少し呼吸がしやすくなる。私にとって永井さんの歌はそういう歌だ。
(初出:『つばさ』第13号 特集「永井祐と堂園昌彦」 2015年4月発行)
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