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佐藤佐太郎小論(「pool」vol.6掲載)

佐太郎は立ち止まらない                 堂園昌彦  佐藤佐太郎は立ち止まらない。佐太郎はどんどん歩く。歩くのは近所の道である。歩いていても珍しいものは見つからない。芥とか小豆、大角豆だ。たいしたものはない。知人にも出会わない。それでも佐太郎は歩く。  佐太郎がこれほど歩くのはなぜか。もちろん、それは佐太郎の歌と関係がある。佐太郎の歌の特異なところは、歌の中で心の流れを流れのままに提示できる点である。  例えば有名な 苦しみて生きつつをれば枇杷(びわ)の花終わりて冬の後半となる という歌の中での主体の感情は、具体的にひとつのところに固定されない。歌全体のトーンは明確だが、「苦しみて生きつつ」や「冬の後半となる」の細部は鮮明ではない。しかし、その分、歌の始まりから終わりまでずっと主体の感情が動いている印象を受ける。それは、例えば師である茂吉の 沈黙(ちんもく)の我に見よとぞ百房(ひゃくふさ)黒き葡萄に雨ふりそそぐ のような、感情の流れがある事物(葡萄)にせき止められ、肥大して見えるのとは全く異なる働きである。  これはとても珍しいことだ。歌の中では、日々きざす感情は見たもの体験したことによってせき止められ、泉が湧き出るように認識されることが多い。歌人はものの前に立ち止まり、泉を湧き出させる。それに対して佐太郎は湧き出す以前の常に流れている感情を捉える。だから芥や小豆、大角豆をちらっとは見ても、決して立ち止まることはない。これはいつも佐太郎が対象よりも自らの心の動きのほうに夢中になっているためである。佐太郎が立ち止まらないのは、佐太郎の心が動いているからなのだ。そう考えると、佐太郎の近所の散歩も、ずいぶんとスリリングなものに私には思えてくる。 このゆふべ巷(ちまた)あるけば片寄りに芥(あくた)たまりぬ冱(さへ)かへりつつ をりをりの吾が幸(さいはひ)よかなしみをともに交へて來りけらずや 店頭に小豆(あづき)大角豆(ささげ)など並べあり光が差せばみな美しく (初出:2008年11月『pool』vol.6 「『新風十人』を読む」)

平岡直子小論(『井泉』95号掲載)

「地名をどのようにうたうか――私がいま気になる表現」 堂園昌彦  短歌では地名が詠まれることがしばしばある。代表的なものでは、  かにかくに渋民村(しぶたみむら)は恋しかり  おもひでの山  おもひでの川         石川啄木『一握の砂』 をはじめとして故郷に対する愛着を表したり、   吾が見るは鶴見埋立地の一隅ながらほしいままなり機械力専制は  土屋文明『山谷集』 のように激しく移り変わっていく土地の姿に言及したりする。いずれも、作者のその土地への思いが直接的に表現されている。また、時代が下ると、  行きて負ふかなしみぞここ鳥髪(とりかみ)に雪降るさらば明日も降りなむ  山中智恵子『みずかありなむ』   螢田てふ駅に降りたち一分の間(かん)にみたざる虹とあひたり  小中英之『翼鏡』 などのように地名がある種の象徴性を持つことも多い。「鳥髪」も「蛍田」も単なる土地の名前であるという以上に、その名称の持つイメージが歌全体の性質を決定づけている。  しかし、最近詠まれた次の歌はこうした地名の歌とは少し違う感触を持っている。 ゆっくりと乾いた舌を引っこめる箱根がおいでお湯こぼさずに  平岡直子「法律」(ネットプリント『ウマとヒマワリ5』/2019年3月)  この歌では「箱根」が単なる地名であることを辞め、人間であるかのように詠まれている。「乾いた舌」を持つ潤いのない〈私〉を癒す場所である「箱根」に対し、むしろそちらから来て欲しいとまるで恋人に言うかのように呼びかけている。「箱根」という土地自身が擬人化され、お湯を持って主体の方にやってくる様が幻視される。また、「箱根」に呼びかける主体の存在の大きさというか、土地に命令できるこいつはなんなんだという不思議な感覚が興味深い。平岡は地理に対する独特の感性があり、他の作品にも 冬には冬の会い方がありみずうみを心臓とする県のいくつか  「東西も南北もない地図」『短歌』二〇一一年四月号) 東京の頬にちいさくしゃがみこむただ一滴の目薬になる  「ありとあら夜ること」(『率』六号) 福井ってあそこでちぎれそうだけどわたしが見たい光る生きもの  「紙吹雪」(『短歌研究』二〇二〇年一月号)) などがある。これらの歌に共通しているのは、地名という概念を手で触れるものに変質させていることで、みずうみが心臓である「県」も、頬をもつ「東京」も、ち...