平岡直子小論(『井泉』95号掲載)

「地名をどのようにうたうか――私がいま気になる表現」

堂園昌彦


 短歌では地名が詠まれることがしばしばある。代表的なものでは、

 かにかくに渋民村(しぶたみむら)は恋しかり

 おもひでの山

 おもひでの川        石川啄木『一握の砂』

をはじめとして故郷に対する愛着を表したり、

 吾が見るは鶴見埋立地の一隅ながらほしいままなり機械力専制は 土屋文明『山谷集』

のように激しく移り変わっていく土地の姿に言及したりする。いずれも、作者のその土地への思いが直接的に表現されている。また、時代が下ると、

 行きて負ふかなしみぞここ鳥髪(とりかみ)に雪降るさらば明日も降りなむ 山中智恵子『みずかありなむ』

 螢田てふ駅に降りたち一分の間(かん)にみたざる虹とあひたり 小中英之『翼鏡』

などのように地名がある種の象徴性を持つことも多い。「鳥髪」も「蛍田」も単なる土地の名前であるという以上に、その名称の持つイメージが歌全体の性質を決定づけている。

 しかし、最近詠まれた次の歌はこうした地名の歌とは少し違う感触を持っている。

ゆっくりと乾いた舌を引っこめる箱根がおいでお湯こぼさずに 平岡直子「法律」(ネットプリント『ウマとヒマワリ5』/2019年3月)

 この歌では「箱根」が単なる地名であることを辞め、人間であるかのように詠まれている。「乾いた舌」を持つ潤いのない〈私〉を癒す場所である「箱根」に対し、むしろそちらから来て欲しいとまるで恋人に言うかのように呼びかけている。「箱根」という土地自身が擬人化され、お湯を持って主体の方にやってくる様が幻視される。また、「箱根」に呼びかける主体の存在の大きさというか、土地に命令できるこいつはなんなんだという不思議な感覚が興味深い。平岡は地理に対する独特の感性があり、他の作品にも

冬には冬の会い方がありみずうみを心臓とする県のいくつか 「東西も南北もない地図」『短歌』二〇一一年四月号)

東京の頬にちいさくしゃがみこむただ一滴の目薬になる 「ありとあら夜ること」(『率』六号)

福井ってあそこでちぎれそうだけどわたしが見たい光る生きもの 「紙吹雪」(『短歌研究』二〇二〇年一月号))

などがある。これらの歌に共通しているのは、地名という概念を手で触れるものに変質させていることで、みずうみが心臓である「県」も、頬をもつ「東京」も、ちぎれそうな「福井」も、いずれも肉体を与えられている。その効果は、パブリックなものである地名を作者個人の愛着や執着を滲ませるものに変化させることだけれども、加えて、「県」や「東京」や「福井」が肉体のみならずそれぞれの人格まで宿しているかのように読者に感じさせることにある。つまり、地名を概念ではなくひとりの他者として扱っているのだ。

 地名を擬人化させるというこの技法の面白い点は、土地に対する考え方を個人的なものと一般的なものとの間で宙吊りにさせ、余白を生み出すことができるところだ。啄木や文明の作品は土地に対する作者の考え方の表明である。一方、山中智恵子や小中英之の作品では、地名の持つ一般的なイメージが作品を支配している。平岡の歌では、その土地への作者の思いと一般的なイメージの間に作品が存在し、土地の持つ性質が作品の中で新しく生まれている。

 地名を擬人化させるという技法の先行作品としては、

テレビみながらメールするメールするぼくをつつんでいる品川区 永井祐『日本の中でたのしく暮らす』

の「品川区」等があると思うが、平岡の作品ではさらに土地の他者性が際立っている。土地を他者として理解するとは、「自分とは異なるものである」と思いながらも「しかし自分とは遊離したものではない」と感じることだ。そのままでは理解できない概念を理屈ではなく詩の中で肉体を持ったものとして触れようとする技法は、今後さらにテーマを広げ、「戦争が廊下の奥に立ってゐた(渡辺白泉)」のようになっていくのかもしれない。


(初出:2020年9月『井泉』95号 「〇〇をどのようにうたうか――私がいま気になる表現」)

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